青い花 第2話「春の嵐」

本編の感想前に、前回触れられなかったポイントについて幾つか。

まずはオープニング。このオープニングに幾原邦彦を起用するところが面白い。この原作で、物語の全体のムードを考えれば、もう少ししっとり落ち着いたムードのオープニングにまとめる方向が普通であったように思う。
しかし、幾原はかなり「派手な」絵コンテを切ってきた。色とりどりの花の中であーちゃんとふみちゃんがぐるぐると踊るところをクレーンカメラを用いたような大胆な引きと寄せを用いたダイナミックな絵コンテを切ったかと思えば、産まれたままの姿になった2人がじっと見つめあうところで締め括るという、一見「青い花」には相応しくないような華美な画面展開を見せていた。一方、アニメーション本編が持つゆったりとしたタイム感は持たせているし、また、あれほど華美な演出を施しながらも作品の清潔なイメージが損なわれない仕上がりになっている。

改めて、幾原邦彦の才能の凄さを思い知らされてしまった。

また、音楽の羽毛野丈史の仕事も特筆に価する。綺麗で、落ち着いたメロディながら、決して前面に出すぎることはなく、時には鳴っていることすら気付かせないくらいに、物語に寄り添い、静かに盛り立てていくようなサウンドトラックとなっている。日本の連続ドラマにありがちな、とりあえず音楽をバンバン鳴らして、「何となく盛り上がっている風」を演出するのとは180度異なる、真摯で優しいスタンスだ。

また、これは今話で改めて気付いたのだが、デジタル処理を実に巧みに使っている。物語序盤で、ふみちゃんとあーちゃんが入った喫茶店の小道具として、小瓶と飲み物を割っている氷の描写があるが、これがリアルな質感がよく出ていて、実にグッドだった。後処理で瓶にデジタルで効果をつけていたのだろうが、デジタルであることを感じさせない、さりげない効果であった。また、江ノ電や車などは、おそらくは3Dの立体画像を用いているのだが、色使いも質感も周囲の平面的な背景やキャラクターから浮き上がって見えないような処理がなされており、見事であった。

で、ここからが本編の感想。

本話は、Aパートであーちゃんがふみちゃんの家にお泊りするところ、Bパートでふみちゃんが杉本先輩に連れられてあーちゃんの高校に見学に行く回(そこであーちゃんの同級生井汲さんと杉本先輩の間にアヤしい関係性が秘められていたことが示唆される)。

冒頭、ふみちゃんが電車が駅に着いていながらも、電車が通り過ぎるのを見やって、あーちゃんが来るのをひたすら待っているところが可愛らしい。あーちゃんからの電話の遊びの誘いに、勢いよく「行く!」って答えたり、あーちゃんと一緒のベッドで寝ようとごねたりと、早くもふみちゃんがあーちゃんに「懐いて、甘えてくる」行動を取り始めてきている。それに対して、昔子供だった頃にそうしていたように、ふみちゃんの言うことを寛大に受け入れ、甘えさせてあげるという形を取っている。その一方で、あーちゃんは既に、子供の頃には感じ取れなかった、ふみちゃんの隠れている部分(千鶴ちゃんとの関係性)に既に気付き始めているところまで描かれる。
2人のドラマが自然に築き上げられていくところが、実に面白い。

また、今話では割と明確な形で、ふみちゃんと千津ちゃんの間に肉体関係があったことが示されるが、ここの描写が白地に黒い靄がかかったような背景の上に、ふみちゃんの全身の輪郭が白く浮き上がるような演出になっているのが、ちょっと独特で面白かった。

また、カメラ位置が非常に低くセッティングされているのも印象深い。冒頭、プラットフォームに立つふみちゃんや、ふみちゃんの部屋でふみちゃん/あーちゃんが向かい合って座っているところで、1人(若しくは2人)の頭がフレームで切れてしまうようなカット割りをしているのが、なかなか大胆で面白い。上半身や全体を取り込むようなカット割りをするのが常道で、頭が切れるようなカットは通常ならばNGとされるカットである。敢えてそういったカットを用いたのが面白いし、また違和感なくフィルムに収めているところも、地味に巧いところだ。
おそらくはカメラ位置の低さを優先させたかったが故の措置と思われる。では何故、カメラ位置を低くする必要があったのかとまで書くと表現論に踏み込んでしまい、他作品を含めたきちんとした考察が必要になってくるのだろうが、ここではそこまで踏み込まず、現時点での当方の見解に留めるのみとする。おそらくは、「日常的な芝居をきちんと描写するため」そして「やや主観の映像としてまとめたかったため」の2点と思われる。そしてこの2点において、本話は非常に成功しているように思う。

地味ながらも相変わらず非常に面白い。続きを見続けていくのが楽しみで仕方がない。